夜半に佇む 2
紫髪の少女は、その声が遠くから聞こえたようだった。冷えきった声、あの頃の姉からほど遠い、諦めきった声だ。
どうして。本当に、どうして。こんなことになってしまったのだろう―――
本当のきっかけは知らない。
彼女たちの知っていることは、原因が彼女たちにとってはどうでもいいことで。直接の関係などなかった。
ただ、身近な存在だったこと。
そして、病弱だったこと。
それだけだ。
あれは、ファルナの魔力を抑える治療をした日のことだ。
水色の髪をした女性はファルナの知らない魔術師だった。
「あなた、名前は?」
にっこりと笑ったその女性は、ベッドに座る少女の頭を撫でる。
「……ファルナ、です」
怯えた表情で女魔術師を見上げた。
「じゃあ、ファルナ。すぐに終わるから我慢してね」
頭に置いた手をはなさずに、親指で少女の額をなでる。ファルナは、なにが自分をこんなにも恐れさせているのかもわからないまま、その女性の言葉に頷いた。
微笑みはますます深まり、ファルナの言いようのない不安はさらに増すのだった。
そのころ、リーディアは都の方へ出かけていた。ファルナの治療が終わるまでの数時間、知り合いのクオッタの店で遅めの昼食をとり、妹のファルナの分もお持ち帰りを頼んだ。出来立てのクオッタを店の女将からもらい、潰れないように鞄に入れる。
「ありがとう、メーリスさん!」
「なぁに、あたしも早くファルナちゃんには治ってもらいたいからね。それは元気になるために渡しておくれ」
鞄に入れたクオッタは、どれも栄養満点の材料を使用したものばかりだ。
メーリスは腰に手をやり、ふとある人物が居ないことに気がついた。
「そういえば、いつもそばにいるあの無口な男はどうしたんだい?」
「ヴェルグですか?…なんだか急にお父さんに用事を頼まれたようで、どこかにいっちゃいました」
「おや、珍しい。なにがあってもリーディアから離れようとしなかったのにねぇ。おとなしく言うことを聞いたのかい?」
リーディアは眉をさげて、つい先ほどのやりとりを思い出す。
「しぶしぶって感じでしたけど……。なんだかお父さん、すっごく頼み込んでましたから」
「なにかあったのかねぇ。・・・おっといけない。そろそろファルナの治療が終わった頃だろう。天気も不安定なことだし、もう帰ったほうがいいね。引き留めて悪かったね」
リーディアは元気よく答え、足早に駆けていった。
暗闇のなか、ファルナは怯えていた。原因がわからない、不安が、ファルナを押さえつける。
冷たい床に横たわり、治療が終わるのを待っていた。紺色の光が円を描き、ファルナの周囲を囲み、文字が加えられていく。
魔術師には、眠るときのような心持ちでいるようにと言われていたが、到底そんな気持ちにはなれなかった。先ほどから耳に入ってくる魔術師の呪文の言葉。口から発せられる度に、言葉は力としてこの場に現れ、光という形になって染み込んでいく。床に刻まれていく紺色の円と文字はそのなれの果てだ。言葉はその周囲、空間や時間、そして身体中に、目に見えないだけで、刻まれているのだ。
そのひとつひとつを、ファルナは感じ取っていた。力のない魔術師には感じとれない微力なものまでも。それ故に、ファルナの身体は不安定だった。周囲の魔力の変動を感じ取ることで起きる不安が、ファルナ自身の魔力にも影響を及ぼしていたのだ。それを止めるには、魔力を感知する力を弱めさせるか、封じるしかない。だが、それには危険が伴う。 魔力を感知する力は魔力を保持していればいるほど、高い。すなわち、魔力に比例してその力は高いということだ。
魔力は生物の生きる力の源に等しい。その力を、生命力を急激に弱めることは、人の身体は衰弱し、最悪死亡する場合も少なくない。通常その施術は力の弱さを身体に慣れさせるために、徐徐に魔力を抑制させていく。その術が解かれるのは、魔力を自身の手で制御できるようになったときだ。
施術自体も、高度で扱いが難しい。一歩間違えれば、抑えた魔力が暴走する件もあるという。それため施術は魔力の高い魔術師によって行われる。魔術自体も、数年にわたって行われ、徐徐に安定をもたらしていくのだ。
しかし、ファルナには不安しかなかった。魔力はかき乱されていく一方で、その乱れが強まることはあっても弱まることはなかった。
紺色の魔法陣の、さらに外側に、紫の陣が書き加えられ、それはさらに増した。
何か違う。
何かが。
紺の陣内に居るのは、ファルナと魔術師の二人。その外にあるすべてを、紫の陣は包み込む。
とたんに、それまで不安げに見つめていた母が、その顔を驚愕の色に変えた。
誰かが叫んだ。
その声は聞き取れなかった。
お母さんだろうか。
それとも、お父さんだろうか。
―――ファルナが最後に見たのは、魔術師の、深い深い笑みだった。とてもきれいな笑みだった。
「……………―――――――――」
それきり、ファルナの意識は途絶えた。
小さな炎が掠れて揺れた。
その日、王都に爆音が轟いた。
紫と赤の炎が空を突き抜け、黒煙と灰が際限なく空を、辺り一面を覆い尽くした。王都の上空を雲が覆い、騒ぎと炎と煙をすべての人から隠すように、大粒の雨が降り出したのは、爆発からそう間もなかった。
突如王都に響いた爆音を、リーマスは自身の研究室で聞いた。その音が何を示し、何のためのものなのか、リーマスは知っていた。
もう、戻れないところまできてしまった。
灰色の男が、自分を殺しに来るだろう。万が一、来なかったとしても、代わりに少女が来ることも、リーマスは覚悟していた。そのために、今すぐにやっておかなければならないことがあった。
払った犠牲は巨大で、その重さに潰れてしまう前に。
微力な魔力を感じ取り、彼女の来訪を知る。赤い魔法陣が光とともに現れる。光はやがて人の姿に変わり、背の高い細身の女性が形作られた。
拍子抜けするほどいつもと変わらない微笑みで、彼女は――マディカ・ファースは現れた。子どもがおつかいを頼まれ、いま、帰ってきたかのような、そんな表情で。
そんな軽いものではない。魔力を他人から取り除くということは。
これまで世界各地で魔力の抽出方法は探られてきた。古い魔術研究書には、それは非常に困難で、極めて危険度の高い研究だと記述されていた。事実かどうかは不明だが、過去の歴史からは被検者が死亡するケースの数が多いらしく、現在のユニオンでは禁術として位置づけられている。
表面上は。
人知れず、研究が行われているのは確かだった。闇に紛れて人をさらってきては人体実験をする、「狂」った人間はいつの時代、どこにでも存在する。それが目の前にいる彼女に当てはまるかどうか、リーマスには判断がつかない。彼女がどうやってその方法を探り出したのか。重要ではないのだ。
だが、いとも簡単にやってのける彼女は、それほどの魔力を有しているといえる。嫉妬するほどに、恐ろしいほどに。
彼女は挨拶もなしに、するべきことを行った。必要なことのみを、彼女は行う。
言葉もなしに、赤い光が彼女とリーマスを包む。手に持っていた紺に輝く水晶を、床と水平に持ち上げる。光の浸食が止まると、彼女はその手を水晶から離した。
伸びた白い腕が曲がり、長い指が水晶から遠のいていく。紺の水晶は、ゆっくりと、静かに、床に落ちていった。
砕ける澄んだ音。
広がる紺の雫。
そのひとつひとつが、空間と時に広がり波紋を波たたせる。
それが魔力の欠片だ。
その煌めきと輝きが魔力の元の持ち主の力そのものだ。
紺の光が、やがて居場所を求めるように、リーマスの足下に漂い、そのまま、水の流れがあるように、リーマスへと消えていく。そのたびに、あらがいようのない力の奔流がリーマスを襲っていた。光がひとつ、消える度にリーマスの表情には苦悶が広がる。それは、リーマスの足や手、胸や頭に重圧を加え、震わせ、痺れさせた。
雫が消える頃、リーマスは立ってすらなく、床に倒れ落ちていた。
それにマディカは眉ひとつ崩さずに、当初現れたままの表情で終了を告げた。
「後は、予定通り、あなたの好きにするといいわ」
マディカがにこりと微笑み、最初と同じ方法でここから立ち去った。リーマスが彼女に口を聞くことは最後まで、なかった。