暁光に昇る 5

 メアがコヒィを飲み終え、ゆったりとした空気が流れていた。マスターは自分用の、先程メアに入れたものとは比べられないぐらいに極上のコヒィを入れようとしている。
 コヒィは豆だ。それを焼いて専用の道具で挽く。挽いたものを熱湯でろ過させてやっと飲料としてのコヒィが出来上がる。味を最大に左右しているのは豆だ。マスターは特に豆の保存に凝っている。自分用の、最高級の豆は魔法で完全に空気に触れさせないほどの手の入れようだ。その豆が入った瓶に伸ばしている手が止まった。
 そのままメアの名を呼ぶ。呼ばれた彼女は、素気ない。
「護衛はどうしタンだい?」
 憮然として彼女は答えた。
「知りませんわ。待ち合わせの場所に来ませんでしたもの」
 肩をすくめてさらに言う。マスターの耳には恐らく届いていない。しばし思案気に顔を捻った。
「そうカイ」
 どうでもいいように、彼は作業を再開した。










 例えば、それは誰かの背中にひっついていたときに、無理やり引き剥がされるような感覚だ。あるいは、強い向かい風にあった時、耐えきれなくて後ろに下がっていくような。
 はがされていく。
 あたしが。ここから。消えるため。
 あたしは白濁とした世界で、浮遊していた。風が吹いてあたしを後ろに追いやろうとする。そんなに強くない流れでも、確実にあたしを「ここ」から離していくのだ。
 また風は吹く。差が広がった。
 あたしは完全にその流れに任せきりだった。そんなどこまでも流れていくあたしの手を、誰かが突然掴んだ。
「―!……お姉ちゃん…」
 流れる風に微塵も動かされないで、そこに浮遊していた。姉は額に汗をにじませて、遠くから走ってきたように呼吸が荒い。無言で引き寄せて、そのままあたしを抱きしめる。震える肩にそっと手を置いて、自分の軽薄さを思い知る。
 流れに身を任せることは、死ぬことなのに。
 きっと姉は泣いてはいない。泣くことを捨てたから。泣くことどころか全てを捨てた。幸せになること。生きること。いろんなものを。あたしがここにいて、生きるために。
 思えば昔から、この人はあたしの為にいろんなものを捨ててきた。病弱だったあたしの傍にいるために外で遊ぶこと。友人を持つこと。いつもあたしの傍にいるか、剣の鍛練をするかのどちらかだった。魔力を持ちながら魔術を扱えなかった姉は剣を手に取っていたのだ。
 姉の居場所を奪っていたのはあたしだ。未来と自由な選択を奪っていたのは。なのに、あたしはいまだここにしがみついて、偽りの生を送っている。
 あたしが死んだら、姉はどうするのだろう。いままで考えてこなかった。考えたくなかったのかも知れない。全てを捨ててあたしも居なくなったら、もしかしたら。
 なら生きよう。姉が望む限り。姉が泣かないために、生きよう。










 目を閉じて、意識をあげる。白さが消えて、辺りが暗くなった。しばらくして体に重みとだるさを感じた。光が瞼の隙間から入り込んでくる。やっと今日普段の生活に戻れたと思ったのに。こんなことばっかりだ。自分に辟易する。
 次第に見慣れない天井が見え、通り沿いのためか賑やかな気配が壁越しに伝わってくる。
「目が覚めたかい?」
 聞き覚えのある声がして幾瞬反芻する。確か、ここの――
「……メーリス、さん…?」
「そうだよ。気分はどうだい。あんた急に倒れたからびっくりしたんだよ。…ここはさっきまであんたがいた店の二階だよ。まぁ、あたしの部屋ってことだね」
 アキアスが聞きたいことまで先回りして答え、メーリスは水を渡す。それを受け取りながら、慌てて謝罪と礼を述べた。
「もう、大丈夫です」
 返事を完全に無視する形で、メーリスは続ける。
「聞いたよ。魔術の攻撃を受けて倒れたんだって?今のうちにしっかり休んどかないと、あと後にどっと疲れがくるんだからさ」
 曖昧に返事をすると、メーリスは嘆息した。呆れたようにアキアスを見つめている。
「体は回復しているように見えても、心はそんな簡単に平常には戻らないもんなんだよ」
 わかってるのかい、わかってないんだろうね。リーメスは、好奇心を外へ向けて自分には全く無頓着な真っすぐに突っ走ることしかしない子供ようにアキアスを見る。
 心…?
 別に怖くはなかった。マディカに襲われた時は、あの人はあたしを殺さない。そう思っていたから、怖くなかった。
 ――本当に、そうだろうか。
 水の入ったコップを両手でぎゅっと握りしめる。
「手が震えているじゃないか」
 はっとして自分の手を見つめる。端から視界が霞んでいった。メーリスが寄り添って頭を無言で撫でてくる。
 違う、違うのだ。あたしは生きたかった。死にかけていても、生きたかった。理不尽に終わろうとしていた人生を終わらせたくなかったのだ。あの「流れ」に任せたまま、死んでもいいと思った訳じゃない。面倒になって、考えることが嫌になったから逃げようとしただけだ。生きたくて仕方がないのに。姉にすべてを任せようとしたんだ。
 あたしは生きたい。生きることで、姉のすべてを奪ってでさえも。
 だから、これはあたしの我儘だ。姉の選択ではけしてないのだ。あたしがそうさせた。
 あたしの我儘なんだ…。
 嗚咽を噛み殺す。止まらない涙をただあたしは流し続けた。










「本当に大丈夫かい」
 眉をよせるメーリスは不満そうだ。あれから何事もなかったように振舞ってくれたメーリスではあるが、その後の予定に関しては口を出してきたのだ。急に倒れたアキアスを気遣ってのことだ。それを押し通して、リリスとキルフェを無理やり納得させて、遊びまわるつもりのアキアスだった。
「俺が着いていきますから、それほど無理はさせませんよ」
「だから不安だってのもあるんだがねぇ…」
 不審な目をしてフェルデキールを見つめるメーリスだ。容赦のない彼女の言葉に、フェルディールはがっくりと肩を落とす。それを励ますキルフェという構図はもう見慣れた光景になっていた。アキアスとリリスはさすがに苦笑して見つめる。
「またおいで。飲み物ぐらいならサービスしてやるよ」
 親指を上につきたて、ニカッと笑うメーリスは逞しい。それに笑い返して三人は王子と伴って店の外へ出ていった。
 扉に備えつきの鈴が鳴る。
 すぐに通りの喧騒がそれをかき消した。いつもと変わらないことだ。なのに、目の前に変化があった。
 男だ。
 剣を片手に、それもこちらに向けて立つ男がいた。
 顔はわからない。白い覆いが顔を隠していたからだ。ただ、口はきつく結ばれているのが見える。
 周囲を見渡すと、同時に十数個の槍と剣が交互に、煌く刀身を向けて少女を囲む。さらに黒い光を放出させた魔術師が取り囲んでいた。




「アキアス・レディフェルカ。大人しく我々と来て貰おう」




 冷淡な声が、光を携えて突き刺さった。