黄昏に沈む 2

 まだ日が昇ってすらいない時間帯から人々が動き出すのは数ある祭の中でも一つだけだ。その日は朝から国中の人々が動き出す。ぽつぽつと灯される火が淡く揺らめいて間もなく、人々は他の場所へ蝋燭を灯すべく移動する。まだ暗い時分、薄い紫紺の闇が辺りを包む。朝日の見えない空間はなんとも言い難いほどに頼りないのに、人々の足取りはしっかりとしている。というより浮き出したっていた。
 自然と浮かぶ笑みとリズム。どこからともなく聞こえる歌声は子供でさえ知る歌で、一つの安定要素で、国の結束を強めるには丁度良く、老若男女誰もが行うことが可能だった。安定した音程はあるはずもなく、しわがれた声に滑らかな音も、がらがら声に幼い声、妙に合わさった響きは合唱と呼ぶには程遠く、だからと言って非難がるほど嫌悪するものではない。ただし、現状況に不平不満を抱く者、極端に静寂を好む者以外だが。

 国家生誕祭は、いつも国歌の合唱で始まる。





 生誕祭は祝日である。国民の多くは休日で早朝から騒ぐのが通例で普通だ。そんな日に仕事があるのは不運な公職者か物好きか商売人だろう。加えてそれをわかって仕事を押し付けるのは極悪人で空気を読めていない阿呆だ。
 溜息は吐かない。せめてもの奴への嫌味は無駄に終わり、逆にこちらの揚げ足を足られた始末なのだ。
「なにか御不満でもおありですか」とわかっていながらそんな言葉をかけてくる奴―我が従者は無表情だ。憎らしい。父は既に逃亡しているというのに。あちこちから国歌の合唱が耳に入り、外出したくてたまらない。何が嬉しくて広い執務室で淋しく仕事をしなければならんのだ。
「いや?このような祝日に職務を抱えている者に対し、憂いているだけだ」
不機嫌顔を止め、通用するはずない笑みで押して見る。案の定従者は嫌味たらしく答えた。
「さすがはユニオンの第二王子でいらっしゃいます。仕事に追われる数少ない国民を想い嘆かれるとは。私は従者として光栄に思います」
 王子と従者の攻防は、机上の書類が無くなるまで続いたのだった。





 くだらない。こんな風に吐き捨てた言葉が頭に響いたのは例年通りに始まった国歌合唱が終わらないどころか始まってから間もなくだった。平時よりも遥かに早い時間に起床し、黒を基調とした制服を着ながら、あたしはしょうがないよと返す。
 百にも及ぶ国家が存在していた時代が終わり、事実上は一つの国として統一されてからまだ半世紀しか経っていない。いまだ地方により教育、経済、制度といったものに差があるものの、それまでの世界情勢ははっきり言ってよくはなかった。むしろ最悪だったらしい。それを記憶している者は少数だろうが、現段階からいって今の国政に不満を持っている国民は少ない。
 姉の不満宣言は恐らく朝早くからの合唱に寄ったものだとあたしは確定づけた。極端に朝が弱い姉は自分の意思以外による起床をひどく嫌っている。毎年二度寝が可能な状況にないこの日を姉は億劫に感じていたのだ。それはひとつの身体に二つの魂が存在するようになってからも変わらないらしかった。

 鏡に映し出された自分の姿は、本当は自分ではない。姉の姿だ。肩にも届かないほど短い紫色の髪、紺色の瞳は双子なので同じでも、あたしは二重ではなかったし、病弱だったために明確にわかるほど体格が異なっている。
 もともとあってなかったようなあたしの命は姉の中で存在し、名前を変えて生活している。両親が亡くなってあたし達は親から授かった名前を捨て、親の知人に紹介された孤児院に引き取られ、まもなく国立学院の魔法学部に通うことになった。全寮制の学院は全生徒個室であたしと姉のことを知っている人はおかげでいない。

 周囲から生徒達が集まっているのか、窓外から聞こえる合唱よりも幾分かはましな響きが耳に入ってくる。
 響き渡る歌。安定と平和を謳ったその歌詞は誰が作ったのか。少なくともあたしは知らない。知らないでいいと思った。知って何かが変わるとは思わなかったのだ。あたしは生誕祭を友人と祝うべく、扉の取っ手に手をかけた。

 壁際にある灯台が光り、いまが朝だという実感を狂わせる。あたしは夜中の時間帯だと感じた。とはいえこの時間帯に廊下を行き来する生徒が昼間の食事帯以上に埋め尽くし、奇妙な雰囲気である。
 祭だ。と一言で終わらせるのもさびしい。
(探すの大変だなー)なんとなくそう考えると,
(じゃあ止めれば?)
  すぐさま返答が来た。暗に静かなところに行って寝かせろと言っているのだ。妹が昼間行動しているときは別段姉の睡眠には支障はない。姉が干渉せず心を閉じれば妹も姉が何を考えているかは不明だ。どうやら今日の姉の機嫌は最悪らしい。

 だからと言って祭は楽しみたい。

 浮き足立っているのはどうやら自分も例外ではないらしい。そこではたと気付く。
 そういえば、今日一限に講義があったな。面倒な事に確か国史だった。生誕祭を理由に授業が無くならないばかりか生誕した経緯を学ぶ―とかなんとか。今年は国語担当のリーマス先生で、なにやら愉快気にこの日を楽しみにしてたな。祝うのはその後にすることにして今だけでも姉のためにも図書館で暇を潰そうと思い、あたしは生徒寮からそう遠くない図書館へと足を向けた。





 祝日にある講義ほど嫌なものはない。確実に全生徒が思っていることだろうが、我が妹はどうやらそうではないらしい。こんな状況になる前はもちろん妹は歴史関係が好きだった。大まかな歴史の流れを習うときは何時でも細部まで聞かないと納得しない性質だったし、統一の際に起こった50以上の戦争、条約、当時の国名、制度等をかなり真剣に記憶しようとしていた。途中で泣きながら挫折していたが。

 昔と今。何が違うというのだろうか。たいして何も変わっていないのに。変ったことはたったひとつで、人が変化するのには大きなものじゃないはず。七年前、妹は死にかけた。死ぬはずだった。いや、今死んでいないとどうして言い切れるのだろう。ここに生きているのはアキアス・レディフェルカという少女で国立学院の魔法学生だ。周囲の人が知っているのは妹であってわたしではない。なら、わたしは生きていると言えるのか。人に記憶されることで生きているというのか、あるいは実態があれば生きていると言えるのか。そのどちらかであるとも言えるしどちらでもないとも言えるし、そのどちらかであるのだろう。それを決めるのは個人個人で他人じゃない。自分だ。

 わたしは生きている。妹ともに。ひとつの身体で、ふたつの魂を宿して。これがアキアス・レディフェルカという存在でそれ以外にはない。もしそれ以外があり得るのだとしたら、きっとそれはもうアキアスでなくなる。一人の人間が死に、一人の人間が眠りから覚めることなのだろう。

 鐘が鳴った。同時に歓声が沸き起こる。講義が終わったのだ。確かリーマス先生だったか。溜息を吐きながら笑って彼は講義の終了を告げた。